Lens Impression
ZK 5cmf1.5とJupitar-3
5cmf1.5は基本的に同じゾナーコピーレンズであるが、抜本的に異なるレンズでもある。その経緯はこうだ。
エルネマン社から会社合併によってカール・ツァイスグループのツァイス・イコン社に移籍してきた天才レンズ設計者Ludwig Bertele(ルードヴィヒ・ベルテレ)は、ツァイス・イコン社がライカに対抗すべく開発した35mm判レンジファインダー機コンタックスの標準レンズとしてゾナー 50mm
f1.5/f2.0を設計した。
コーティング技術が未熟であったこの時代、空気部分を屈折率の低いガラスで埋めて反射の少ない3枚貼り合わせとし、ダブルガウス型よりも反射面を2面減らすことにより、開放からコントラストが高く、しかも非対称型にも関わらず歪曲なども的確に補正された巨人ツァイスの画期的なレンズに、当時のライツ社は対抗するすべがなかった。このゾナーの構造は世界中に衝撃を与え、3枚貼り合わせの多用は高度な技術と工作精度を必要としたものの、第二次世界大戦のドイツ敗戦で特許が無効とされると、多くのコピーレンズが作られた。
第二次世界大戦でドイツが降伏したとき、カール・ツァイスの本拠地Jena(イエナ)には米軍が進駐していたが、ヤルタ協定では米軍は1945年6月末までにイエナから撤退し、ソ連軍が進駐することになっていた。Carl Zeiss Jenaの高い技術力を十分認識していた米国は、撤退直前の夜中に取締役のハインツ・キュッペンベンダーを含む主だった研究者と技術者(カール・ツァイス社85名、ショット社41名、合計126名)を強引に移送。彼らはイエナより遥か西方のハイデンハイム(シュトゥットガルト東方、オーバーコッヘンよりやや南の小さな街)へと移された。彼らは1年後にオーバーコッヘンに移り、粗末な設備で、レンズの生産を再開した。社名のZeiss
OptonはOptik Oberkochenの省略形である。(この社名のレンズは、1953年の裁判の結果、西側ツァイスが正式に「Carl Zeiss」の商標を獲得するまで製造された。その時点で東側のツァイスは商標が使用できなくなり、Pentaconとなった。)
一方、ソ連占領下のCarl Zeiss Jenaの工場や設備、原材料、従業員たちは、ヤルタ協定の戦時賠償として翌1946年にソ連に移送された。このうち、一部の設備と技術者はウクライナ地方まで移送され、コンタックスⅡ型、Ⅲ型のデットコピーであるKievカメラを造り始めた。また別の設備はモスクワ州中部のクラスノゴールスクに移動し、KMZ(Krasnogorsk機械工場 )でショット社の硝材を用いてゾナー 50mmf1.5を含むコンタックス用のレンズのコピーが、コンタックス、ライカ両マウントで製造が始められた。
ゾナー 50mmf1.5のコピーレンズはまず初めに1947年に試作品的に「Jupitar」が少量製作され、次の年1948年から「ZK」(ロシア語で「Zonnar
Krasnogorskii =クラスノゴールスク製ゾナー」の略)という名称で正式に生産が開始された。「ZK」の製造番号は1948年製は000001番からの通し番号であったが、翌1949年には「Zorki]を表すキリル文字「ЗОРКИЙ」が入り、製造番号の先頭に西暦年下2桁が付される体系(1949年製は49xxxx)に変更された。1949年製には一部鏡胴上部の絞り調節用の耳のないデザインのものも存在する。 さらに1950年にはレンズ名がポピュラーな「Jupitar-3」に変更されたが、製造番号は継続して先頭に西暦年下2桁が付される体系のままである。
今回のレンズは、ZKの000320番のレンズで銘板には1948年と記載されている。おそらく光学系はショット社の硝材を含めすべてドイツから移送されたものと思われる。鏡胴はアルミ製に変更されているので、精度がどの程度確保されているのか定かではないが、当然当時の担当技術者もドイツからの人間であったと考えられるので、精度は低くないものと思われる。
レンズ銘板の赤文字の刻印「Π」は英語の「P」を表し、恐らくgoogle翻訳でも表示される英語の「coating」のロシア語への直接変換「Πокрытие」の頭文字だと思われるが、それが単層コートなのか複数コートなのかは、この文字だけではわからない。
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